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天気図の日


 2月16日は「天気図の日」ということになっているが、正式にそのような記念日を気象庁で決めているわけではないというのは、blogにも書いたとおり。

 ただ、1883年(明治16年)2月16日に、東京気象台で初めて実用的な天気図が描かれたのは間違いのない事実なので、そのあたりの事情を「気象百年史」から拾ってみよう。

 船舶の航行の安全を図るために、暴風警報を開始することに関しては、明治の最初の頃からアメリカ人アンセチル、ライマン、イギリス人ジョイネルといった外国人達が建議をしていた。

 例えば、アンセチルの建議は次のようなものだ。
「電信線ニ沿イ長崎ヨリ北方各所ニ風雨寒暖総シテ気象ヲ測リ見ルノ局ヲ設ク事最須要タリ 余之レヲ政府ニ建白セスシテ此書ヲ結尾スル能ハス 夫レ暴風ハ尽ク南西ヨリ来リ支那海浜ノ風ト連絡ス 故ニ電信ヲカルトキハ大風ノ来タラサル前数刻ニ其襲来ヲ知ルヘク船舶難風ノ害ヲ免カル可シ 海浜ニ合図(信号)ヲ設ケ置カハ湊ニアル船ハ予メ用意スヘク小船ハ出帆ヲ戒ム可シ 方今難風ノ来ルヲ前知セス海ニ出テ船舶人命ヲ損亡スル者許多也」

 明治8年に東京に気象台が設置されたが、内務省においては測候所を増設して、天気予報と暴風警報を発表する方針を明治10年には打ち出し、内務卿大久保利通の決断によって、直轄測候所の設立を申請することになった。これにより、長崎、野蒜(ノビル:宮城県)、新潟に直轄測候所が設立された。また、観測点の数が少ないため府県経営による測候所の設立を各地方長官に働きかけた。
 この結果、明治14年までに、広島、和歌山、京都、岐阜の測候所が設立され、明治15年には、青森、金沢、高知、大阪にも測候所が開設された。さらに北海道開拓使により、既に設置されていた札幌、函館測候所に加え、明治11年には留萌に、明治12年には根室に測候所が設立された。

 ドイツ人クニッピングはもともとは商船の航海士であったが、明治9年には内務省駅逓寮管船課に海技試験の試験管として雇われた。クニッピングは明治5年以降、宿舎において気象観測をしており、明治11年、12年、13年に来襲した3個の台風について調査を行い、彼も暴風警報の開始を促進する建白書を提出した。こうして、かれは暴風警報業務の実施を計画していた東京気象台に明治15年1月1日付で雇い入れられることになった。

 クニッピングは暴雨警報を実施するために必要な測候所の配置を検討し、鹿児島、宮崎、下関、境、浜松、沼津、宮古、秋田の8箇所にも設置することを進言した。また、気圧の単位をインチからミリメートルに変更したり、観測法の統一、気象電報の通報型式の決定、気象機器の点検と観測法の指導のための全国の測候所の巡回なども行っている。

 こうして、明治16年1月には、1日1回の気象電報の無税化が認められたこともあり、2月16日6時に気象電報の収集を開始して天気図が作られることになった。ただし、当初は試行期間であり、正式な業務として天気図が作成されるようになったのは3月1日からである。
 また、上述した24の気象台・測候所のうち、根室と留萌には電信線が未通であり、この2箇所からはまだ通報が行われなかった。また、宮古の開設は3月1日であり、試行期間には宮古の観測はプロットされていなかったと推察される。
 ちなみに、気象電報開始当時の発信から着信までの所要時間は、札幌のように遠いところで50〜60分、沼津でも10〜20分かかったそうである。

 当初の天気図ができるまでの流れは、気象電報は電信の担当者が受信し、それが気象台のプロットする人に渡されてプロットだけを行い、クニッピングが等圧線を引いて英文で概況を書くという手順だったようである。面白いのはその後石版印刷するために、天気図の版下は画家が描き、概況は気象台の職員が英文と和文を手分けして記入するという点で、果たして印刷されるまでにどのくらいの時間がかかったものだろうか。



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